2019年01月29日21:01
粟ヶ岳頂上への道路の開拓≫
カテゴリー │東山を訪ねる
こんばんは 掛川の深蒸し処 東山茶業組合です。
大勢の方が粟ヶ岳頂上へ徒歩で、あるいは車でと楽しんでいますが、あの車道も大昔からあったわけではないのです。「東山郷土史」(昭和44年発行)という郷土の歴史を先輩方が記録した小誌(200頁もあります)が東山の各戸にあり、これに当時の詳細が記されております。
その時の東山村長が当時のあたふたとした様子をうまく執筆されています。
昭和27年3月、東京から数人の通信技官が村役場に現れ、「東京大阪間の電波の中継所の候補になっている、送信の結果が良ければ頂上に中継所を設置し、ふもとから頂上まで自動車で登れる道路を開設する」と申し出されました。
東山村が文化の恩恵をうけることをおおいに喜び、これより4月に入ると大勢の来訪者、機械類が続々到着し活気立ち、これらの重い荷物を頂上まで運搬したのは東山地元民だったらしい。
工事は多数の労務者が入り昼夜とも行われ、トラックの音、岩石を爆破する鋭い響き、勇ましい労務者の掛け声が山々に反響して大行進の交響曲のようだったと村長のおもしろい表現に感心します。
その後上京して国との交渉など色々紆余曲折あったことも詳細に記されております。が、はしょりまして昭和29年4月、無事に粟ヶ岳無線中継所の開局式を迎えたのです。
苦労の甲斐があり今は簡単に頂上に上がることができます。新しい頂上休憩所の工事も着々と進み富士山も眺望できるそうで楽しみですね。皆さん、どうぞまたいらして下さい。

頂上付近の車道、この車道なら楽に登ることができます
大勢の方が粟ヶ岳頂上へ徒歩で、あるいは車でと楽しんでいますが、あの車道も大昔からあったわけではないのです。「東山郷土史」(昭和44年発行)という郷土の歴史を先輩方が記録した小誌(200頁もあります)が東山の各戸にあり、これに当時の詳細が記されております。
その時の東山村長が当時のあたふたとした様子をうまく執筆されています。
昭和27年3月、東京から数人の通信技官が村役場に現れ、「東京大阪間の電波の中継所の候補になっている、送信の結果が良ければ頂上に中継所を設置し、ふもとから頂上まで自動車で登れる道路を開設する」と申し出されました。
東山村が文化の恩恵をうけることをおおいに喜び、これより4月に入ると大勢の来訪者、機械類が続々到着し活気立ち、これらの重い荷物を頂上まで運搬したのは東山地元民だったらしい。
工事は多数の労務者が入り昼夜とも行われ、トラックの音、岩石を爆破する鋭い響き、勇ましい労務者の掛け声が山々に反響して大行進の交響曲のようだったと村長のおもしろい表現に感心します。
その後上京して国との交渉など色々紆余曲折あったことも詳細に記されております。が、はしょりまして昭和29年4月、無事に粟ヶ岳無線中継所の開局式を迎えたのです。
苦労の甲斐があり今は簡単に頂上に上がることができます。新しい頂上休憩所の工事も着々と進み富士山も眺望できるそうで楽しみですね。皆さん、どうぞまたいらして下さい。

頂上付近の車道、この車道なら楽に登ることができます